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zoom RSS 終戦からの思い出・・・

<<   作成日時 : 2008/08/10 20:39   >>

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 何時かテレビで町角にたむろしている若者に8月15日って何の日か?と問いかけていたら、終戦記念日と答えた若者はホボ皆無でした。今の若者にとって終戦記念日と言うのは我々にとって1868年は何の日と問われるようなものではないかと思います(正解は元号が慶應から明治に変わった年)。1945年8月15日正午、NHKラジオは天皇の肉声により日本の全国民に日本が戦争に負けたというお知らせを流しました。今の若者にとっては終戦記念日は入試の為に知っておくべき歴史上の出来事にしか過ぎないでしょう。この日を境にもの皆全て考え方を根底から180度変えて、鬼畜米英から一転米英様々お助け下さい!と懇願しなくてはいけないので教師や公職に就いている指導的立場にいる人にっては大変な事だったと思います。新しい理念(民主主義)を説いた教科書が間に合わなくて従来の教科書の彼方此方に都合の悪い個所は墨を塗って臨時に使ったと当時の小学生だった人が語っていました。当時は砂糖不足で子供達に充分に甘い物を与える事が出来ないため子供達は甘い物に餓えていました。私の親は子供が砂糖を舐めるので砂糖の隠し場所に随分と苦労していたようですが、こっそり舐めたところを見つかっても、子供の気持ちを分かっている親はそんなに叱りませんでした。ブリキの玩具も分解すると裏に英文字の書いた空き缶のブリキでした(今骨董の世界でこの種の玩具が高値で取引されているようですね)。お小遣い等貰えない子供達はゴミ置き場みたいなところより銅線の切れ端を集めてはスクラップ屋に売ってたり、川で泥鰌を捕って料理屋に売ったり・・・といろんな事をしてお小遣いを稼げました。遊びと言えばベッタ・コマ・ビー玉等、これらは近所の駄菓子屋で売っている子供の小遣いの範囲で買える物ばかり、これでも足りなければ今の若い人には想像できないでしょうけど、遊び道具まで自分達で作りました、スキー・スケート・筏・ソリ・・・etc。今のようにテレビも無く勿論ゲーム等ありません、遊びはどうしても外に出て友達と遊ばざるを得ませんでした。そんなわけで道路から路地裏までどこもかしこも子供達の遊ぶ声で満ち溢れていました。私は苛められっ子でいつも誰かに泣かされていましたが、しかし必ず何処からか近所のおじさんが現れて助けてくれました。後年知った処によると共働きで日中留守になる事が多いので母が近所の人頼んでいたそうです。終戦直後ラジオドラマ菊田一夫の「君の名は」が大変な人気になってこのドラマが始まる時間はお風呂屋さんが空になると言われたほどでした。そう言えば内風呂の有る家が少なくて殆どの家が風呂は銭湯でしたね。ラジオドラマと言えば子供達人気の有ったのは赤胴鈴之介・紅孔雀・笛吹童子等これらは後に東映で映画化されて東千代之介・中村金之助・片岡千恵像・大河内伝次郎等々のヒーローを生み、悪役専門の進藤栄太郎?なんて俳優もいましたね。そんなラジオも何処の家にも有ると言う物ではなく、近所のラジオの有る家では出窓の外にラジオを向けていて夕方始まる時間になると皆その家の前に集まって一喜一憂夢中になって聞いていました。また口ずさむ歌と言えば唱歌など歌う子供はいなくて大概歌うのは歌謡曲でした、死んだはずだよお富さん!リンゴ追分!東京だよオッカサン!別れの一本杉!・・・etc学校の音楽の時間に教科書の歌はカラッキシ歌えないのに歌謡曲を朗々と歌う強者もいました。貧しくともちっとも恥ずかしくない時代でした、大抵の人が貧しいから見栄を張る必要なんてないんです!・・・・やがて中学生になり日本も一寸づつ豊かになっては来ましたが、繊維製品や玩具がアメリカ等欧米に輸出されて、しかし価格が安いため輸入先の同業者の産業を脅かし一時はmade in japanは「安かろう!悪かろう!」と揶揄されて先々の国で低く見られていました。そうです!今の中国のようです。先日我が家の実家の物置から当時誰からか頂いたアメリカ土産のエンパイヤーステートビルの模型出てきました、裏を見ると「made in japan」の刻印が有りました。しかし日本の工業も切磋琢磨して徐々に車・カメラ等の品質が向上して世界に認められて来ました、学校で先生が日本の車がどうして優秀か?「それは日本の悪路に耐える車を作るから日本の車は丈夫なんだ!」と皮肉交じりに言っていた事を思い出されます。この項続く・・・

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東条元首相の終戦直前手記見つかる…14日に自殺決意記す
 東条英機元首相が、太平洋戦争の終結直前の1945年8月10〜14日に書いた手記が、国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されていることがわかった。 手記には、終戦に反発する東条元首相の「本音」が散見され、研究者は「歴史的に価値ある資料」としている。 同館によると、手記は東京裁判で東条元首相の弁護人を務めた清瀬一郎氏が法務省へ寄贈した資料の一部。鉛筆書きの肉筆メモのほか、60年代に和文タイプで打ち直... ...続きを見る
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内 容 ニックネーム/日時
 コウチャンさん長文読ませて頂きました。人それぞれ考え・思想に違いがあるでしょう。それを容認しながらどう共存していくかが問われます。

私は貴殿より少々歳上、玉音放送は記憶にあります。住みし町も戦火に灰燼と化し、そこから運ばれた焼死体を埋葬する現場も黙視して来ました。

毎日がひもじく唯、口に入る物が有ることだけが喜びであったとの記憶です。
教科書も先生の指示通り墨で塗り潰し殆ど消されてしまった教科書で学びました。

時代は戦時を知らない年代が半数を超している様ですがこの現実を風化させないで同じ過ちを繰り返さないようにしたいものですね・・・
若山です
2008/08/12 09:05
若山さん!
コメントありがとうございます。
私に妙な思い出が有ります、それは幼児の頃だと思います。
その日は珍しく近所のおじさん・おばさんは我が家のラジ
オの前に集まって来ました、が、どこかシンと静まり返っ
て何時に無い雰囲気。私は手直に有ったラジオのスイッチ
を悪戯していました。突然母に叱られて母の膝の上に・・・。
思い出はココまでですが、今思うと多分玉音放送ではなか
ったかと思います。母に言ってもそんな事は全く忘れてい
るようで、何も答えてくれません。また飛行機が物凄い低
空で飛んで来て、笑っている操縦士の顔が見えました(髭
面の顔でした)。この事は母は良く憶えていて釜石を空襲
した帰りの飛行機で防空壕に入って僕がいない事に気づい
て慌てて防空壕に引きずり込んだそうです。「あの時は殺
されるか!と思ってヒヤヒャしたぜ!」こんな断片的な記
憶しかありません。何れにせよあの戦時中体験した事は、
同じ過ちを繰り返さない為にも全ての国民共通の体験と
して決して風化させてはいけないと思います。残暑厳し
きおり若山様もご自愛ください。有難うございました。
コウチャンの部屋
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2008/08/12 15:08

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